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不老支部見学研修会 「横浜・関内桜木町災害の歴史と防災を学ぶ」

港崎遊廓と慶応の大火

不老支部は、9月20日「横浜関内・桜木町 災害の歴史と防災を学ぶ」をテーマに、防災意識の向上を図る目的で歴史散策を行う見学研修会を開催しました。講師には横浜の歴史に詳しい関東学院大学名誉教授でNPO法人日本防災環境副理事長の小林照夫先生を迎え、過去多くの災害に見舞われたその史跡や遺構が残る場所を先生の解説を聞きながら、横浜の歴史を知り、災害に備えるためにはどうしたら良いかなどを学びました。

午後4時30分、参加者はJR関内駅南口前に集合し、まず、足を運んだ場所は、横浜スタジアムがある横浜公園です。この一帯は、江戸時代の末期まで入り海で、1856年(安政3)に埋め立てられて太田屋新田と呼ばれました。1859年(安政6)の横浜開港に伴い、新田の沼地約1万5千坪がさらに埋め立てられ、港の先にあるということから港崎町(みよざきちょう)と命名され、外国人相手の遊廓街として賑わっていました。

JR関内駅南口に参加者が集合 港崎遊廓についての説明を受ける

開港から5年ほどたった頃には、港崎遊廓には500人余りの遊女がいて、江戸の吉原、京都の島原と肩を並べるほどの一大歓楽街でした。ところが、1866年(慶応2)11月、日本人街の末広町で豚肉の販売業を営む鉄五郎宅から発生した火災は、折からの強風にあおられ、またたく間に広がりました。焼失地域は現在の関内の3分の2に近いほどの範囲に及び、運上所、改所、役人官舎といった主だった建物はことごとく焼けてしまい、外国人居留地も大きな被害を蒙りました。この大火災は「慶応の大火」と呼ばれ、横浜の歴史上大きな区切りとなって、その後の横浜の街の形成にも大きな影響を与えることになりました。

横浜公園と日本大通り

慶応の大火の後、それを復興する都市計画が江戸幕府と居留地を使っている諸外国との間で協議されました。まず、被災した港崎遊廓を関内の外に移し、周囲の沼地を埋め、その跡地に公園を造るというものでした。完成した公園は、「彼我(ひが公園)」と名付けられ、日本人と外国人が共用する日本で最初の西洋型都市公園で、クリケット場も設けられました。これが現在の横浜公園です。

次に、協議された都市計画は、幅60フィート(18.3メートル)の道路が設けられたことで、これが馬車道や海岸通りとしていまに継承されています。さらに、彼我公園から海岸まで幅120フィート(36.6メートル)の道路を通すことも決まり、1870 年(明治3)に完成しました。これが現在の日本大通りで、火災の延焼を防ぐ防火帯としての目的もありました。こうした横浜の近代都市形成のプランナーとして活躍した英国人リチャード・ヘンリー・ブラントンの胸像が日本大通り側の入り口にあります。

横浜公園入口にあるブラントンの胸像 消防救急発祥之地の石

また、慶応の大火では、居留地の外国人消防隊も消火に活躍しました。横浜公園から海側に数分歩いた場所には、「消防救急発祥之地」の石碑があり、居留地消防隊が消火用の水を確保するために、地下貯水槽を設置した遺構です。

地下貯水槽を設置した遺構の前で  

さらに、横浜公園は、1923年(大正12)9月1日の「関東大震災」では、地震に続く大火災で炎に追われ、市民が続々と公園に逃げ込んできました。園内は罹災者で埋まり、火の手は四方から迫まりましたが、鬱蒼と茂った樹木と水道管の破裂で園内は水びたしとなったことが人々の命を救ったのです。

日が暮れなずむ頃、桜木町の屋形船「はま風」に移り、懇親の会となり、冷たいビールで喉を潤し、揚げたてのてんぷらに舌鼓を打ち、稲荷寿司をほおばり、初秋の宵を楽しんだ次第です。なお、参加者は見学研修会に18名、屋形船には33名でした。皆さん、お疲れ様でした。

小林先生の講義(上)と屋形船 屋形船の前で参加者の記念撮影

広報委員 山田一廣

 


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