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渡辺 元智 氏
総会記念講演要旨「高校野球と私〜50年を振り返る〜」
横浜高等学校野球部前監督
渡辺 元智
PROFILE
神奈川県足柄上郡松田町出身。1968年 母校から要請され、24才の若さで横浜高等学校の監督に就任し、その後は多くの子供達を育て、甲子園で活躍。同校硬式野球部監督を永年務め、強豪校に育てた。指導の際の座右の銘は「富士山に登る第一歩 三笠山に登る第一歩同じ一歩でも覚悟が違うどこまで登るつもりか 目標がその日その日を支配する」これを信念に愛甲猛、鈴木尚典、多村仁志、松坂大輔、成瀬善久、涌井秀章、石川雄洋そして筒香嘉智選手など多数のプロ選手を指導。全国優勝5回・甲子園通算51勝

昨年7月末で退任致しましたが、今日は(横浜高校野球部時代の)ユニフォームを着てくれば良かったでしょうか。私は1965年にコーチ、3年間を経て横浜高校野球部監督に就任しました。光陰矢のごとし、それから50年間はあっという間に過ぎました。私は横浜高校を卒業し、神奈川大学へ行ってからも野球を続けていましたが、壁にぶつかりました。目標を失うと人間はどうなるか。投げやりになります。自暴自棄に陥って、千葉で遊びまわっていました。また、好きな野球ができたのは、私の人生にとって望外の喜びです。高校時代に一生懸命やっていたお陰で前任者の後を任されたのだと思います。

日本一長い練習、日本一きびしい練習

私は自分が出た学校に呼ばれて、3歳くらいしか違わない弟とも言える年代の後輩を指導する立場になりました。これがなかなか難しい。コーチに就任したとき、きびしくやりました。そういう訓練しか見てこなかったですから。指導理念はない。恩師の指導理念を踏襲する形で得たものや、見よう見まねで、あるいは自分が体験した練習を押しつけたのです。私の恩師はものすごく厳しかった。だからこそ今の私があると認識しています。あの時代は、とりわけ野球部はすごく厳しかった。しかし担任の先生以上に私を信頼して(保護者は)任せきりでした。

コーチを経て監督になったときから目標は全国優勝。千葉で自暴自棄に陥っていた私に再び道を開いてくれた野球に感謝する。それには甲子園に行かなくてはいけない。そのためには日本一長い練習、日本一きびしい練習をやらない限り勝てない。二十代の監督に何ができるかと笑われました。しかしひたすら、全国優勝。信じて疑わず一つの道を突っ走った。

50年を振り返ると70年代、80年代、90年代、2000年代と10年周期で全国優勝してきた。成功より失敗、栄光より挫折、勝利より敗北、そこから学んだ事の方が多く前進があった。10年周期の優勝は克明に覚えていて失敗を糧に次に生かしていった。だから50年間全う出来たと思います。

真剣に向き合ったから、彼らはついてきた

その頃、東海大付属相模高校の監督は原貢さん、原辰徳・前巨人軍監督のお父さんです。1970年、私は県大会で勝てるチャンスが来たにもかかわらず、決勝戦でやられました。原さんはそのまま甲子園に行って全国優勝して帰ってきました。そこから「打倒 東海大相模」がスタートした。それから東海大相模を上回る超スパルタ練習を課しました。

また、良い選手をとるために一生懸命動きました。横浜高校は創立当時はすばらしい学校でしたが、その後、不遇の時代が続いたので、何とか野球を強くして学校の活性化を計り、昔の学校に戻したい。その思いに沿って選手を集めました。

当時は合宿所がない。大阪から来た15歳の選手と、一緒になったばかりの私たち夫婦と、平和島の四畳半の長屋で3人でスタートしたのが合宿所の始まりなんです。この選手が「奥さんが(炊事を担当して)僕の為に一生懸命こんなにやってくれている」と、野球部の強者たちに話しが伝わり「それじゃあ、練習はきびしいけれど、あの監督についていこうか」ということに繋がっていきました。それから実に10回(合宿所を兼ねて)アパートを転々しました。

練習では、今のように照明がありません。車のライトで照らす。「まぶしい」と反論すれば1時間正座。汚い部室の土間に畳を敷いて、家に帰えさせずペナルティー練習。鶴見で試合やって負ければそこから(学校のある能見台まで)ランニングさせた。どうしようもない連中ばかりだったからこそ真剣に向き合えたと思う。彼らはついてきた。大人が真剣に向き合えば相手がわからないはずがない。

初めての甲子園優勝

厳しいから選手が練習に出てこないことがあります。それだったら帰れない様な場所(大島や八丈島)を選んでキャンプをやりました。結果は予想以上に彼らに耐える力を付けてくれました。忍耐力も養われたと思います。それが功を奏して1973年の春の選抜高校野球大会に出場して優勝することができたのです。

前年の関東大会では、当時、作新学院高校に怪物・江川卓というすごいピッチャーが出てきて、決勝で遭遇。徹底的にやられ、準優勝でした。夏の甲子園は(勝ち抜き戦の)選手権大会ですが、春の甲子園(選抜高等学校野球大会)は、神奈川県の秋の大会、関東大会に行った実績で選ばれるのです。学校の品位もある。うちは関東大会で準優勝しても、当時はとんでもない学校だったから選ばれないとハラハラしました。でも、準優勝という実績と選手の実力も高く評価されセンバツ大会に選ばれ、全国優勝する事が出来ました。優勝のお陰で不遇の学校が一躍有名となり、認められるようにもなりました。

自分を変えることで得た第2回優勝

優勝した監督はモテモテです(いろんな誘いがあり自分を見失った)。甲子園優勝の後、連続出場するもののその後はしばらく勝てませんでした。

そのころ二人の恩人に出会って「一流になるには一流の人と付き合いなさい」と、いろいろな所に連れて行っていただいた。一流の人は礼儀からして違う。異業種の会に入って、野球を知らない人たちがどういう視点で野球を捉えるか、それも勉強になりました。それからお寺回り。「頭の下げ方から直せ。君が、生徒に頭の下げ方をどうして教えられるんだ」「言葉は大事だ」。言葉を大切にして、選手側に立つことがやっとできた。もっと選手と接触する機会を多くしたいと、教職免許もとりました。私は、うまく自分を変えていくことができた。

それが1980年の、愛甲猛というピッチャーを擁しての2回目優勝に繋がった。10年周期ごとに変化しているんです。自分が変化しなかったらこの時代の選手はついてこなかったと思います。

言葉が人を動かす

スパルタ訓練・日本一長い練習・大島合宿から、今度は向き合って会話をする。家庭訪問して親と話をする。愛甲猛が1年生で甲子園に出場して帰ってきてすごく騒がれ、あげくに辞めた。その為、愛甲に代わって、川戸浩という投手をマンツーマンで鍛えました。3年で夏の大会を迎えるころ愛甲が戻ってきたんです。また甲子園に行けるぞと愛甲に一生懸命になってしまった。川戸は愛甲が来たとたんに前と同じ扱いに戻されたため、嫌気が差して、合宿所を出て行ってしまった。びっくりして「愛甲とともに横浜高校の大エースなんだよ」と伝えると、戻ってきました。やはりうれしいのは「エース」と言う言葉でしょう。甲子園で川戸は優勝ピッチャーになりました。

この大会の天理高校戦では、スタートから雨の中の戦いで、7回雨天コールドも予想されていた。そんな状況の中、7回の表に1点取られ、その裏、絶体絶命の時にチャンス到来。2アウトながらもランナー1塁2塁となる。しかしその場面で一番打てない1割打者が登場。そのとき伝えた言葉が「雨が降っている、投手はストレートしか放ってこない。1球目から狙いなさい」。センター前を打って同点になった。また、次の打者も更に打てない。胸を触ったらガタガタ震えている。本人に安心感を与える言葉。「1対1だからお前が点を取らなくても負けることはない。1球目から(バットを)振れ」。振ったらスリーベースヒット。その結果3-1で勝利を得た。その勢いで決勝戦、早稲田実業に勝って、宣言通り全国制覇できました。

奇跡の大逆転の裏に

この辺りから、選手の気質も大きく変わってきました。メールの時代になって、会話が通じない時代に入っている。黙って挨拶するだけ。「目が死んでるなあ、私に疑心暗鬼なんだろう」と、いっそう選手の中に入るようにして、私もメールを覚えた。あの頃のメールは大変でした。でも、そういう環境で育った子どもを大人が理解してあげないと。私は野球の中にヒントを得ました。チームワーク。自分で努力する。野球には犠牲バントもあります。人生の縮図が一試合に詰まっている。選手達を信じる事によって奇跡の大逆転は生まれました。

1998年の夏の甲子園。松坂大輔投手は、PL学園高校戦で17回延長戦をやり、ずっと一人で投げてきて疲労度も、最悪の状況になっていました。明日の準決勝の明徳義塾高校戦では松坂をはずそう。甲子園で負けていいと思ったのはあの試合だけです。8回まで6対0。うちはヒットが3本しか打てていない。それなら最後に松坂を投げさせて最高のメンバーで甲子園を去ろうと決心をいたし、8回の裏に松坂に「ブルペンでキャッチボール始めなさい」と指示をしました。それまで応援がほんとに静かだったのが、大観衆の声が伝わってきた。松坂がマウンドに上がったらさらにすごい。巻き返して6対7になって勝利。その甲子園で見事に優勝しました。私は「負けていい」と自分に言い聞かせていたが、選手が諦めていなかった。誰一人諦めていなかった。みんな奇跡だと言いますけれど、奇跡を達成するために努力してきたんです。努力することの尊さというのはあります。

私は1980年の甲子園大会前に「全国優勝してくるぞ」と宣言しました。うぬぼれではなくて、目標を持たないで実現できますか。一生懸命やってダメなのと、諦めたり努力しないでダメなのでは、全然違う。一生懸命やった中では、勝っても負けても価値は同じなんです。だからこそ、野球人生が終った後でも第二キャリア、生きる道はたくさん開けると思います。

人が人を動かすわけですから、相手の人格を認め理解しなくてはいけない。そして最後は愛情です。愛情が必ず人を動かします。指導者生活50年間の教訓です。ありがとうございました。

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