写真家
常盤 とよ子
【プロフィール】
1930年横浜市生まれ。1951年、東京都立家政学院卒業後、アナウンサーとなるが、女性写真家団体「白百合カメラクラブ」に参加して、写真家の道を志す。1956年、女子プロレスラー、ヌードモデル、看護婦などを撮影した「働らく女性」展(小西六フォトギャラリー)を開催、1957年には特に赤線地帯の女性たちに焦点を絞った写真エッセイ集『危険な毒花』(三笠書房)を刊行して注目される。以後、一貫して「女性」をテーマに、写真作品、テレビ映画等を制作する。





なくなられた御夫君、奥村泰宏氏も横浜文化賞を受賞された写真家ですね。常盤先生とヒューマニズムが共通しているように思います。
 いつも一緒に写すことで写真とは何かを教えてもらいましたが、でも奥村泰宏の方がずっとやさしくて、なんて言うのか心温まる作品でしたよね。
 わたしは、昭和36年、銀座の小西六ギャラリーで「働く女性」をテーマに個展を開きましたが、それ以来、沢山のテーマに取りくみましたが、その中で働けど働けどやっと生きている女性たちに魅せられました。芸者さんを写しても三流が好きでした。
 小港で催した国際盆踊り大会で、蝉の羽根のようにすけた服のド派手な女性と出会いましたがそれが横浜本牧のチャブ屋のお六さんで、それからずっとわたしの本牧通いが始まったので、彼女は女学校を卒業したことや、結婚して家族と写した写真の中心に立派な髪のご主人らしき人もいて、いろいろあったんでしょうね。流れ流れて、チャブ屋にたどりついたのでしょうから。
 何日か姿を見せなかったお六さんが八王子の精神病院に収容されている事を知ってかけつけました。オキシフルで脱色した毛を火箸でカールしていた彼女は地味な着物姿で普通のおばあさんに変身して現れたの。
 雪の降る寒い日でした。亡くなったという知らせに、東京のはずれにあった焼き場にいきましたが、引き取り手のない箱が六つくらいあって、最後にお六さんと会いましたが、寒さと恐さでふるえて撮したのが忘れられません。
 お骨の引き取り手が現れたと喜ばれて困ってしまいましたが、多少のお金を彼女がもっていた事で、解決しましたが、現実は厳しいですね。


● 常盤先生の子供時代は2次大戦前の豊かなころですよね。

 子どものころと言うと、遠い昔のような気がいたしますね。横浜で生まれまして、(家は)お酒の問屋をしておりました。JRの東神奈川駅のそばに大きな倉庫がありまして、貨車で運んできた品物がそのまま入るようになってました。うちの後ろにも倉庫があって、酒樽の間を縫って鬼ごっこしたりしてましたから、お酒はかなり免疫になってますね。

子どものころからお酒を?

 いえ、それは(笑)。神奈川通り4丁目で、市電の停留所の真ん前。父はよくお金持たずに乗っちゃって、市電を待たせてお金を取りに来ていたのを覚えています。そののち隣の銀行の潰れた跡ですが、3階建ての格天井の涼しい家、そこで育ちました。

戦争中もそこに?

 ええ、5月29日に焼けるまで。

横浜大空襲の時ですね。女性が写真家になるのは珍しかったと思いますが、どうして興味を持たれたのですか。
 学校を卒業してから兄の会社へ手伝いに行ってまして。のちにわたしの主人になりました奥村泰宏の所へ集金に行ったんです。わたしは習い事をしますと、徹底的にやらないと気がすまないところがありましてね。なにかやってないといられない。ちょうどその時やることがなくて。写真ってとても面白いときいて、女性はほとんどいないし、いないところをやらせていただこうと思って。

何歳くらいのことですか。
 23、4だったかな。わたし、男の方の中で仕事をしたいという気持ちを持ってたんです。それがどうしてかと聞かれても、もう思い出せません(笑)。カメラを触ったこともなかったんですが、兄が中学生の時期にローライコードを父に買ってもらったんです。寝てもさめても「ローライコードがほしい」って歌っちゃってたんですって(笑)。高かったんだと思いますけど、父が根負けして。兄が暗室も作っていたので、かなり影響されていますね。

大桟橋で撮影をなさった時期があるそうですね。
 
あそこには出船、入り船のドラマがあって。ここを舞台に写真の勉強をしようと思ったんです。出航5分前は、目の前50センチメートルの所で撮影しても、誰もなんにも言いませんでした。船上の相手に気を取られているから。最初は出航5分前に2台のカメラのフィルムが尽きちゃって、一番いい所が撮れなかったり。ですから、10分前に新しくフィルムを入れ替えちゃうんです。大変面白い、すてきな場所でしたねえ。今寂しいですね、航空機に替わってしまって。


先生の作品は被写体の人たちとの間に距離を感じないですね。

 最初は使えるような写真が撮れなかったですよ。何回も何回も行くことで相手の懐の中へ飛び込めた。そういう撮影をしてきました。
 「沖縄の微苦笑」展なんて新聞でわりと誉められましたが、けなされるのはいいのですが、無視されるのはいやでしたね。

横浜は、野毛に日本初の写真館を開いた下岡連杖(1823年生まれ)以来の写真発祥の地ですが、写真の文化活動は今ひとつではないでしょうか。
 かつて働ける場は東京に集中しているわけです。志を立てて東京に行かないとなんの注文もいただけなかったわけです。東京で活躍してくると横浜で受け入れてくれる、そういう風潮はありましたよね。今、そんなことはないでしょうが。
 横浜は文化水準が高いし、すてきな人たちがそろっている。写真界の偉い先生方、土門拳先生や日大の(写真科教授)金丸重嶺先生、横浜に呼ばれたら「よく考えて行けよ、横浜にはすごいのがいるぞ」って言われたそうです。
 (横浜の写真文化活動は)盛んですが、でも発表の場所は少ないですね。高いギャラリーはありますが、写真は印刷するのが主になりますからね、ものを売ることは。

神奈川県写真作家協会をまとめられていらっしゃいますね。

 神奈川県写真作家協会がどうして生まれたかといいますと、二科展、ハマ展、みんな美術と一緒なんです。写真だけの会がほしくて、今年で21年目になりました。現在、映像の時代来ましたね。最近の学生祭で、他の部門は閑散としているのに映画と写真の部門は満員なんだそうです。「そういう時代になりましたね」嬉しかったですねえ。

デジタル写真が急速に普及して写真の世界が変わってくるのではないでしょうか。

 わたしはデジタルと以前からの銀塩と共存できると思ってるんです。写そうとするもの適切なものを作者が選べばいいので。わたしはリンゴがリンゴ色に出なくたって、黒いリンゴだって面白ければいいと昔から思ってますから。
 カメラは発明されてから160年くらいですかね、まだ新しい。自分が表現しようと思うものをしっかり踏まえていればどんな手段をとってもいいんじゃないですか。

写す人の感性、想像力が原点ですね。
 そう、それが一番すてきなことと、思いますよ。

長いこと写真活動を続けてこられて良かったなと感じられることは。
 わたしね、学校出まして「何になるの?」と聞かれると「お嫁さん」って言ったんだそうです。そんなわたしがいろんな事を考えて、世の中のことにも敏感になったりできたのは、写真をやったからだと思ってるんです。写すたびにいろいろ考える。考え方が本質を突いてないといい写真なぞ生まれませんからね。わたしはファインダーの中を覗きながら育ったと思ってるんです。写真がわたしの育ての親。写真をやってなかったら行かない所、いろんな所へ行って。「この人たちがなぜ?」って、いつも思ってました。これからも「なぜ?」と思い続けていこうかと。

作品を作るとき「なぜ?」という気持ちを持つことが大事ですね。
 そうですね。5月29日、母と妹を連れて火の中を逃げたんです。父ははぐれちゃって、やけどして、それがもとで亡くなりました。わたしの中で「あのとき助かった」のが、得した人生だなと思っちゃったんですね。それでわりと大胆で、萎縮しないで、仕事の世界でやってこれたかな。あれがわたしの原点じゃないかなと思ってます。


税経研修センターにて



インタビュアー/廣岡・氏家・河合