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市川 徹 氏
インタビュー 2018年06月
普通の映画監督から言わせると「違う生き方」をしている。
映画監督
市川  徹 氏  
PROFILE
1972年、日本大学卒業後、テレビ神奈川(tvk)に入社する。tvkでは、音楽・バラエティ番組などの制作を担当する。87年に独立し、音楽・映像の製作会社を設立する。 1993年、第一作となる「ファンキー・モンキー・ティーチャー3 康平の微笑」で映画監督デビューする。その後、十余年の間、監督として数多くの青春コメディやヤクザ映画のVシネマ作品を手がける。 2006〜07年の富山県や神奈川県を舞台にした伝記映画「九転十起」三部作の監督を機に、日本各地のご当地映画を撮り続けている。監督作品は、第一作から、これまで、85本に及ぶ。 2006年より地域密着映画に取り組み、「ご当地映画の巨匠」と評されることもある。単に、ご当地で映画の撮影をするだけではなく、地元の一般の人や商店会の人、時には、 知事や市長など自治体の首長の、出演もあり、地域ぐるみで参加する映画作りをおこなっている。町おこし、地域活性化へと広く発展するような映画製作を目指している。

──●市川徹監督は横浜で育って、浅野中学・高校卒業ですね。日本大学を出られ、テレビ神奈川に就職されました。日大は芸術学部ですか。

じゃ、ないんですよ。農獣医学部。

──●ほう、その後テレビ局に就職されたのはどういうことで?

父が町医者でして、僕が父の後を継ごうと思っていましたが、しかし、残念なことに医学部は落ちました。当時、日大農獣医学部には、2年間勉強すると編入試験で医学部に移れる制度が当時はあったんですよ。そのずるい制度(笑)に乗って医者になろうとした。悪いことに学生運動が勃発して、大学はロックアウト状態になって、その年から医学部に移るのはダメとなったのです。そこで、目的がなくなった僕は、何をしようかなと考えました。ちょうど、兄がベースボール・マガジン社で記者をやっていたので、僕も本書いたりするのが好きだったので、兄の手伝いをしながらマスコミの世界に入った。卒業のときにちょうどテレビ神奈川(TVK)が開局したんです。

──●昭和47年でしたね。TVKではどのようなお仕事を。

編成も営業もやりました。映画も好きで、映画の購入とかやりました。でも番組とかイベントを企画するのが好きだったです。東京の営業だったとき考えたのが「ファンキートマト」略称ファン・トマ。お陰様で番組になって、次に音楽番組を作ろうと、じゃあ「ミュージックトマト」、ミュー・トマだ、となぜかトマトのつく番組名が、TVKの名刺がわりになって。14年間お世話になったTVKでしたが、どうしても映画もやりたかったので、意を決して退職しました。

──●そこで映画の道へ。年齢的には30代でしたか。

36歳くらいですね。映画の作り方なんてまだまだでしたが、プロデュースはできたし、音楽の仲間も多かったので、映画と音楽のプロデュースをやろうと思ったんです。いくつかプロデュースしているうちに間寛平さんを主役に使った「ファンキー・モンキー・ティーチャー」を制作しました。寛平さんの人気も上がって、映画も順調だったので3本目を作ろうというとき、寛平さんが「従来の監督は型にはまりこんでて、お笑いのセンスが自分と違う」って。「一緒に作ろうよ」みたいになって、「じゃあ、僕(監督を)やりますよ」。TVKでやっていた番組制作と変わらないだろうと。何本か撮りはじめ、いつの間にか映画監督ということに相成ったわけ。

──●監督というのは主にどういう道を通ればなれるのですか。

助監督で、カチンコ打ちから始まるんです。その次にエキストラの演出ができる。エキストラに「きみ、ここから歩いてってここですれ違ってね」とやって、(間が)合わないと監督に「ばかやろうっ、何やってるんだ」って怒られるわけです(笑)。そのうちにカメラマンに殴られたり、蹴飛ばされたりする。カチンコってなかなかうまく入んないです。それでみんなやめてっちゃう。「探さないでください」とか書き置きして(笑)。そういうふうにして上へあがっていくんです。

──●それが40代ですか。20〜30年前ですね。殴られたりする時代でしたねえ。

そう、そういう時代です。たたき上げです。チーフ助監督までは、歳を取ってくるとだいたい上がれるんです。ギャラはいいんですよ、でもみんな監督になりたいから、チーフ助監督はなりてが少ないんです。優秀だなと思っても食うためにずっとチーフ助監督をやる人もいる。もちろん監督の方がギャラはいいですけど、敵は多いし仕事は少ない。そんなのもあって、嫌でね。クリエイターに徒弟制度は必要ないんじゃないか。それで、もしかしたら風穴を開けられるかなと、自分で会社をやった。

その頃、25歳くらいの人が「どうしても映画監督になりたい」って、カメラ店の売り場で(働きながら)編集の練習とかしてて、あんまり一生懸命なんでなんとか育てたいと、その子を使って何作か作った。「この子は歳を取ったら素晴らしい監督になるだろう」と思ってた。3年くらいやって、非常階段を駆け上がっていくシーンを撮った時、当時、ステディカムというグラグラしないで追いかけが撮れる(機材ができた)。自分でそのアングルを見たかったのか、ビルの8階から落ちて……。それが自分の中で一番のショックでした。

──●亡くなられてしまわれたのですね。

それで、その子の分も含めて邁進しようと。普通の映画監督から言わせると「違う生き方」をしている。

──●それから30年近く映画監督をやられて、制作の転機はありましたか。

いっぱいありました。僕はコメディ映画を作りたかった。そして、「1・2の三四郎」というプロレス漫画があって、僕ら力道山世代ですから映画化したくて、作ったんですよ。見事にコケましたね。僕のキャスティングも甘かったんでしょうけど。自分の会社も出資していて、制作を請け負うと、決まった制作費を超えたらそれは制作会社持ちなんです。個人の会社でしたから、えらい借金を背負って、1億円くらい。自殺しようかと思いましたもん。

──●どうやって持ち直したのですか。

日活のロマンポルノがなくなって、レンタルビデオが(人気が)上がってきた時です。一般作でできないかなと。

──●そこから方向転換?

ローバジェットで作るのでいい女優さんも使えません。そこでショートストリーを5本つなげるというのが当たって。お色気もので20本。そのうち、Vシネと言われるようになったやくざ映画の依頼が来て、ずいぶん作りました。子どもがだんだん大きくなって、「(親の作品を)やくざ物しか知らないのでは嫌だなあ」と、方向転換したのが浅野総一郎(浅野学園創立者)。ある人からやってくれと言われて、「(出身校の)浅野じゃん!」。それで「九転十起の男 浅野総一郎の青春」を作ったんです。

──●浅野総一郎は富山県出身ですよね。

ええ、借金ばかり作るので20歳くらいで富山を石を持って追われて、横浜で成功するんです。100〜130くらい会社を作ってます。でも、合併とか繰り返して(創始者)浅野さんの名前が出てこない。(それらの会社から資金を集められず)浅野高校や同窓生が出してくれて、川崎でヒットしたんです。浅野総一郎を1、2、3と作りました。それから、歴史物って面白いなと思って、同じ北陸の出の高峰譲吉(の伝記)「さくら、さくら サムライ科学者高峰譲吉の生涯」。タカジアスターゼの発明者で、止血剤として使うアドレナリンの結晶抽出に成功した偉大な化学者。アメリカですごいお金持ちになって、日本の桜が大好きでアメリカにも持って行きたいと(尽力した)。それがワシントンの有名な桜なんです。里帰りした桜が横浜にも植わっています。  その映画を作って面白かったのは、日本では、高峰譲吉の名前も、功績をも知らないんです。ところが、ワシントンのほうがずっとよく知られていて、ワシントンとロサンゼルス上映させて頂きました。ワシントンでは、前のアメリカ大使が見に来てくれてレセプションもやっていただきました。ソメイヨシノは80年くらいしかもたないですけど、150年経った今でも生き残っている桜があるって。そこで、桜の挿し木を頂いて帰ってきたんです。今、野毛に1本植わっています。プレートが付いて、今年もけっこう咲いていて嬉しいですね。

──●現在の活動は?

もちろん映画もやっていますし、その縁で富山にちょっと、6年ほど、家出してまして(笑)。そこで地域映画というのを知ったんです。地元の人と超低予算で映画を作る。収支とんとんで、6〜7本作りました。僕と黒沢博さん(次号に登場)とのつながりで重要な所です。同い年で、同じ横浜(出身)なので、僕らが高校生から大学の頃、黒沢年雄・博兄弟がいる野毛のマンションに「芸能人はこんな所に住んでるんだ」って見に行きました。それがなぜか富山で、ある人の紹介で知り合うんです。それ以来、音楽のお手伝いしたり、僕の映画に出てもらったり、最近は初めて横浜で、西区の藤棚商店街の地域映画をやらせて頂いたというわけです。

──●ところで、休日はどんなことをされていますか。ご趣味は?

休日は無いですね。趣味は何かというと、編集してるのが好きですね。例えば友達から、子どものピアノの発表会の(映像を)「ちょっと工夫してくれない」とか頼まれたり。子どもの勤めてる会社からハッピーイースターのプロモーションビデオ作ってと言われたり。富山で撮ってきた映像に音楽合わせてみたり。

──●これから構想していることはありますか。

次に考えているのは2つあって、パラリンピックの競技を題材にした映画を撮ろうと思っています。もう一つは、「森友学園問題」を見つけてきて新聞紙上に載せた朝日新聞の記者さんに会って、映画にしたいと思ってます。

──●面白そうですね。ありがとうございました。

税経研修センターにて(4月6日取材
インタビュアー 福井・相澤

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