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成田 良幹 氏
インタビュー 2016年06月
元町が、外国人との接点の中で発展したことに改めて気がついた。
郷土史研究家
成田 良幹 氏  
PROFILE
昭和57年 慶応義塾大学法学部政治学科卒業。産業社会学専攻。広告会社に在勤中、6年半のニューヨーク、3年半のドイツ、延べ十年の海外駐在経験を経た後、横浜の異文化交流の郷土史研究に携る。会社勤務の傍ら、平成24年まで地元横浜の商店街振興組合の設立発起人さらには理事として、商店街を核としたコミュニティ再生の仕組みづくりを試みる。ドイツ在勤中、アルフレッド・ジェラールの故郷、フランス・ランス市を訪ね、市に寄贈されたジェラールの日本美術コレクションと遭遇し、またジェラール財団・理事長の知己を得て、郷土史研究家ユゲット・ギュヤール女史のジェラール伝を入手して自家翻訳した。

──「港町横濱」の歴史をたどる連載をお願いすることになりました。今日はお越し頂いてありがとうございます。

久しぶりで横浜に来るとほっとしますね。3歳くらいから戸塚のほうで育ちました。50年前ですから、自然に恵まれた所でした。僕は集団生活が苦手なもので(笑)、親が海洋少年団に入ったらと、入団させた。初めて横浜らしい海の見える場所に来て、いつかは住みたいと夢のように思っていたら、1989年に、元町のマンションに引っ越して来ることができました。
 1993年にニューヨークに転勤になって、6年半行ってました。帰ってきたときはいわゆる浦島太郎。アメリカ的な発想でいるといろんな軋轢があったり、なかなか日本の社会に溶け込めない状態になっちゃったんです。でも、元町がちょっと違って見えた。開港して山手に住んだ外国人居留者が(仕事場の)山下町と行き来する。中間にある元町が、外国人との接点の中で発展したことに改めて気がついた。異文化に対する許容力というか、どんな人でも受け入れてくれる。元町に住んでいて良かったなと、帰ってきて感じました。

──今も元町に?

今は親の介護で東京にいますが、帰ってきたいと思っています。元町には8年くらい住んでいました。
 僕はその頃ちょっと人生の挫折みたいな経験をしていて、手をさしのべてくれたのが行きつけの床屋さん。彼が副会長していた商店街の会合に誘われて、街づくりのお手伝いをするようになりました。元町のその商店街がちょうど法人化を進めるところで、僕は会社でやっていたことがあるので、事業計画とかをちゃかちゃかっと作った。もう1人、「関東遺跡文化研究会」という同好会に所属していた会社のOBで(気散じに)原稿を書かないかと言ってくれた人がいて、アルフレッド・ジェラールのことを書いた。「横濱紀航」という郷土史の冊子を作られている方にも声をかけて頂いて、ジェラールについて書きました。ジェラールの工場のあった所は元町1丁目77番地、僕は知らなかったのですが、そこに住んでいたんです。

──そうでしたか。アルフレッド・ジェラールとはどんな方だったのでしょう。横浜開港当時の、政府の要人ではなくて民間人ですね。

26歳で日本に来て、オフィスは中華街の山下町公園の前。フランス人が多く住んでいた居留地区らしい。フランス駐留軍相手に食肉卸の商売を始めて、水を売る商売、煉瓦・瓦を作る商売を起業していった。僕はドイツにも転勤になったんですが、海外で10年間仕事をしていて、異文化の中で仕事をするのはいかに大変か痛感したわけです。ジェラールが日本に来たのは生麦事件の翌年ですから、殺されちゃうかもしれないというリスクを冒して日本に来て、起業していったのはすごいことだと思います。そういう所にすごく惹かれるんです。
 彼は26歳の若さで、なぜそんなに国際感覚が優れていたのか。フランスのランス市の出身ですが、羊毛の加工とシャンパンが有名な所で、グローバルな接点はあった。ワイン商人の叔父さんといっしょにヨーロッパ各地を回って経験を積んでいたのです。お母さんが体が弱くて実家に預けられ22歳の時にお母さんを亡くす。そんなことで、遠いけれど日本に行ってみようという気になったんじゃないか。ペリーの『日本遠征記』も読んだんじゃないかな。

──当時は大変だったでしょうね。食肉の後に水を売ったそうですが、先見の明がありましたね。

 食肉はあまり儲かる仕事ではなかったでしょう。横浜は埋め立て地で井戸を掘っても潮水で、水が売られていたのに目を付けた。外国人居留地でも水には大変困っていて、横浜の商人が水道を通そうとしたのですが、木管製だったので漏れたり腐食したり、苦労したみたいです。ジェラールが、山手の地形を見て湧き水があるはずだと思ったのはすごいと思う。元町の土地を買って、水が湧く所だけでなく雨水が浸みてろ過してくれる森もどんどん買い増していった。それが緑に恵まれた現在の元町公園として残っている。

──今も石碑とか残っているのですか。

水屋敷(元町公園下の地下貯水槽)に記念のプレートがあります。ちょろちょろ水が出ている。僕は(元町に越してきた当時から)ちょっと関心は持っていたんです。そこにジェラールのことが書いてありますね。
 元町公園プールの右手に細い坂があって、昔、雨が降ると泥道になって歩くのが大変だったらしいです。当時火事が多かった元町の海側は逃げられるのがこの急坂しかない。多くの方が亡くなったようで、ジェラールは逃げられるように坂を整備したと言われています。現在も「ブラフ溝」という側溝の記念碑が建っていてジェラールの名前が刻まれています。元町の人にも愛されていたのでしょう。

──知らないと見過ごしてしまいそうですが、遺跡はいろいろ残っているのですね。

(貯水槽は)二層になっていて上澄みを今の水屋敷の所に流して、堀川のほうまで上水管を通して、船積みをして海外船に売っていたのですね。彼はランスに帰ってから農業指導のサークルを作ったんです。僕はドイツのデュッセルドルフに駐在していたとき行ったのですが、ランスは暖かくないので、ワインを作るような糖度の高いブドウが採れない。砂糖を加え瓶詰めして発酵させてシャンパンとして売っていた。有機肥料の堆肥を山積みにして作っていたけれど臭うし衛生的でないので、彼は二槽式の地下貯蔵槽を作って、その肥料をブドウ栽培の増産に生かした。これの構造が水屋敷によく似ている。アイデアマンですね。

──いま、ひ孫さんがいるくらいの年代ですか。

彼は独身でしたから直系はいないし、横浜にいたときのことはよくわからないんです。今日持ってきた写真は、2000年に横浜開港資料館がフランス人士官の撮影した日本写真展を企画したら出てきたもの。明治11年5月に、ジェラールが横浜の写真館に行って撮らせたんですね。裏にある「ローニンの国の記念に」という自書の「浪人」というのは赤穂浪士のことでしょう。忠義とかにあこがれを持っていたようですね。ジェラールの墓前には、石の鳥居がある。しかも墓石には横浜に入った日と、出た日の明治11年7月1日とを日本語で刻んであるんです。

──成田さんは「唐変木日録」というホームページをお持ちで、アルフレッド・ジェラールについて詳しく書かれています。興味のある読者はご覧になられたらいいと思います。絵も描かれ、写真も載せてあって、多趣味でいらっしゃいますよね。読書感想も、小保方晴子さんから『美味しんぼ』の鼻血問題まで(笑)載せていらっしゃる。

もっぱら本を読むのが趣味のようなものです。ノンフィクションでは自分が経験したことのない人生を追体験できる。

──大学時代には東京から仙台まで歩いて行かれたとありました。

「奥の細道」に憧れて歩いたんですけど、そんな風流なものでもない(笑)。基幹道は国道4号線ですから。トラックがビュンビュン走って、排気ガス吸ったりけっこう辛かったです。三十数年前ですから、今とは風景も変わっちゃいましたけど。

──600キロを3週間かけて歩いたのはすごいですね。

芭蕉の「不易流行」を実感するために歩きたかったんです。僕は一人っ子なんで、20歳の時、親離れしなくちゃいけないかと。寝袋とか15キロくらいを担いで、半分くらい野宿です。駅で駅員さんに追い出されたり。3日に一遍くらい宿に泊まって。いちばん安い宿は2,500円。凄い所だったですけど。まだ三分の一くらいしか歩いてないので、ゆくゆくはまた歩きたいですね。

──お名前についての文もありますね。珍しいお名前ですけど由来を伺ってもいいですか。

うちは代々「良」という字がつく家系なんです。論語かなんかに良い幹は鳥を集めるという言葉があって、それにちなんで名付け親がつけたのです。「よしみき」と読む方はあまりいらっしゃらない。子どもの頃から「りょうかん」と呼ばれてました。もっと素直な名にしてほしかった(笑)。

──ホームページでも「横濱」と書かれていらっしゃる。横浜への思いは?

アメリカで気がついたんですけど、ヨーロッパに比べて歴史が浅いから、かえって歴史に対する思い入れが強いみたい。横浜もそういうところがあるのではないか。街づくりでも、水屋敷とか古い建造物を残したり、歴史を尊重しながら新しい街を作っていく。大事なことだと思います。因みに「浜」というのは戦後にできた略字です。「賓」というのは砂の波紋のことで、「兵」とは全く意味が違います。サンズイに兵ではノルマンディ上陸作戦ですよね。僕が旧字に拘る理由はそんなところにあります。
 ジェラールや鉄道敷設(に来日した)エドモンド・モレルとか、彼らは、僕がアメリカやドイツで経験したものより数倍も過酷な苦労をした。彼らを知ることで、浦島太郎になっちゃった僕自身の存在の意味を感じることができる。三代住まないと江戸っ子になれないが、三日住めばハマっ子と言いますね。その考え方が好きです。浦島太郎状態で帰ってきても商店街の方々にもよくして頂いたし、横浜は異文化との接触でできたすごく住みやすい街。これからもそういう物を大事にしていって頂きたいと考えています。

──ありがとうございました。連載をよろしくお願いします。

税経研修センター(4月7日取材)
インタビュアー 植草・本山・玉川

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