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横濱・コスモポリタンの群像

【2019.03】 海風になびけ、一銭五厘の旗
       日仏修好通商条約と横濱のフランス郵便局

「日仏修好通商条約」
 ペリーの圧力に屈した江戸幕府は一八五四(安政元)年、日米和親条約を締結。引続き日蘭、日露、日英の各和親条約が締結されたがフランスとは未締結であった。これは、イギリスとの共同歩調を取ろうと情報交換をしていたフランスが結果的にはその抜け駆けに遭い機を逸したことによる。しかし外交・交易を定めた修好通商条約は、米、蘭、露、英に一ヶ月余り遅れること、一八五八(安政五)年九月三日、日仏間に締結されるに至る。


『暮しの手帖』編集長、花森安治が戦後二〇年を経て発表した「見よ ぼくら一銭五厘の旗」は、戦前、大政翼賛会の国策広告に従事した痛恨の念から、戦後民主主義の歪みに対し庶民の自立と主体的な政治参加を呼び掛けた。「一銭五厘」とは戦時中の葉書の値段。葉書一枚で召集され、挙国体制下、生殺与奪を国家に牛耳られた庶民の象徴である。花森は自らぼろ布端切を繋ぎ合わせて作った「一銭五厘の旗」を暮しの手帖社に掲げさせた。


一八六五(慶応元)年十一月十一日に横濱居留地で起きたある事件を英字新聞「ザ・ジャパン・タイムズ」が報じている。当時バンド三一番(現在のホテル・ニューグランド本館裏手)にあったフランス領事館で郵便物の取付け騒ぎが起きた。この日横濱に到着した郵便船より荷揚げされた郵便物は午後十時に領事館付属の郵便局で配布される予定だった。だが、予め船上で行われるべき仕分けがされず、郵便局員のデグロン氏が陸揚げ後、この作業を独り行わざるを得なかったため、明朝八時に配布を延期しようとした所、郵便を取りに集まった者たちが領事館の建物を杖で叩く等騒然とし始めた。フランス横濱領事が制したが騒乱は収まらず、領事番兵が銃槍を向けて大半を追い返したが、これに納得しない者に対し、午後十一時半になって配布を行った。「此一事につけてもデグロン氏の性質平常恭謹なる事を知るに足れり。」と、同紙を翻訳紹介した「日本新聞」は結んでいる。


日本と修好通商条約を締結し領事館を設置した列強各国は、居留民と本国との郵便手段を確保する必要に迫られた。無論、開国直後の日本には国際郵便どころか国内郵便制度もなく、先の翻訳記事も郵便局を「飛脚役所」と記している。既に定期郵便航路により一八六二(文久二)年、上海領事館に郵便局を開設済のフランスが航路を延長し横濱郵便局を開設したのは、この事件の僅か二ケ月前だった。

当時、フランス郵船で月一回、更にイギリス郵船を利用して月二回の郵便の到着があったが、幕末の開港直後、郵便による相互連絡の大半は貿易を中心とする商用が占めていた。特に南仏に端を発する蚕の疫病による絹の減産に追込まれたフランスは、日本からの絹の輸入を激増させていた。絹の買付に係る本国の方針を競合他社に先んじ一刻も早く入手したい、というのがこの取付け騒ぎの発端となっていた。


さて、いち郵便局員のデグロン氏ことアンリ・J・デグロンが郵便史研究家の関心を惹き始めたのは「佛國飛脚屋會社長デグロン君」なる押印のあるフランス仕向け郵便が現代のオークションに登場したからだ。明治初期、国内の郵便制度が整備されつつ未だ国際郵便制度に加盟する以前の日本で、全国各地で投函されたフランス仕向け郵便をフランス横濱郵便局に集約し出荷するためのスタンプが封筒に押されたものだ。この辺りの事情を、松本純一『横浜にあったフランスの郵便局』が詳述しているので、本著に準じデグロンの生涯を追って行きたい。


アンリ・ジョゼフ・デグロンは一八三九(天保十)年、ヴェルサイユ宮殿に程近い街に、法律事務で生計をたてる父と富農の娘である母との間の一人息子として生まれた。一四歳の時、父が投獄され家計は一気に破綻し、アンリは高等教育を受ける機を逸する。幼少より海外で働くことを夢見た少年は、外務省の書記官試験を受験するも失敗する。

海外見聞の夢捨てきれず、一八六〇年、極東配備のフランス軍用船に三等水兵として乗船していたことが、デグロンに関する戦功賞記録から判明している。その後、横濱フランス領事館の下級雇員である「郵便係」として働き始めた事が、一八六二(文久二)年に彼名義で出された公告から分かる。生麦事件が起きたこの年、デグロン自身も港崎(みよざき)町で海軍士官と散歩中、日本人の投石が原因で喧嘩となり全治一ヶ月の負傷を負った、と「仏国公使館付士官殴打事件」なる記録に見られる。

先に記した一八六五(慶応元)年九月のフランス横濱郵便局の開設に先立ち、デグロンは先行局・上海局での実務実習を経て、晴れて七月一日付、横濱郵便局長に任命された、とフランス郵便電信省の人事記録に在る。時にデグロン二六歳の夏、領事館住込みの独身雇員であった。


一方で明治政府の近代化政策の一環として郵便の官営化が進められていた。一八七一(明治四)年の東京・大阪間の郵便路線の開設を緒に、郵便切手の導入、管轄官庁・駅逓寮(後の逓信省)の設置並びに駅逓頭・前島密の就任により郵便事業の整備が進められた。

国内郵便制度の整備と並行し、外国郵便の創設を目論んだ前島は、元郵便職員のアメリカ人サミュエル・ブライアンを駅逓寮に雇入れ、一八七五(明治八)年、横濱郵便局内に外国郵便を開設する。こうして、日本と最初の郵便交換条約を締結したアメリカを皮切りに、列強各国の在日郵便局は日本の海外郵便の傘下に統合され、姿を消していくことになる。


かくして、一八八〇(明治一三)年三月末を以てフランス横濱郵便局は一四年七ヶ月の営業を停止し閉局するに至る。この時、条約締結に際しフランス側から提示された三条件は、フランス郵船に対する補助金支給、外交文書の無検閲通関に加え、フランス横濱局長のデグロンに対する論功行賞として、閉局後一年間の駅逓寮による継続雇用、だった。

この結果、翌年三月末まで駅逓寮顧問としての栄誉と厚遇を与えられ、フランス横濱郵便局のあったバンド一三四番(現在の山下町公園辺り)の継続居住を認められた。一八八一(明治一四)年六月、四二歳のデグロンは海路マルセイユに帰国することになる。


しかし、デグロンの物語は終わらない。横濱郵便局在職中の一八六九(明治二)年、休暇で一時帰国したデグロンは日本の珍しい植物六四種をブローニュ植物馴化協会に持参し、協会は日本固有種の「斑入りシャクナゲ」の学名にデグロンの名を冠し、功労を賞した。専門教育を受けていないにも拘わらず業務の合間を縫ってデグロンは植物の研究を続けていたのだ。

帰仏後はフランス中部のヴァンドーム村の郵便局長からチェニジアの首都チェニスの局長に転出し、その功労に対してレジオン・ドヌール勲章を与えられた。

一八八三(明治一六)年、フランス農務省は日本の農商務省の要請に応じ、葡萄栽培の技術指導者の派遣を決定する。植物学に精通し、かつ日本文化にも習熟したデグロンが人選され、同年三月、二年ぶりに日本の土を踏む。四月以降、デグロンは兵庫、京都、愛知、山梨の葡萄園を巡回し、土壌、耕作剪定、病害除去などの実地指導を行った。その功労により明治政府より勲五等が授与される。

帰国後のデグロンはヴェルサイユ近郊の母方の故郷の街で葡萄園を経営し、一九〇六(明治三九)年、六七歳で没する。生涯独身を貫き、寡黙な彼は、晩年に至るまで近隣との付き合いも少なく、植物と語り合う孤独な生涯を送ったという。


一八五九(安政六)年の開国直後、神奈川・慶運寺に置かれたフランス領事館は、後に横濱駒形町中横丁、バンド三一番、運上所傍、バンド一三四番と転々としたが、その屋根にはいつも三色旗が掲げられていた。それを見上げながら、デグロンはこの横濱居留地と故国フランスの人々の交歓を日々想いつつ郵便物の仕分けを行い、消印を押していたことだろう。領事館内フランス横濱郵便局。そこに掲げられた三色旗は、デグロンにして正に「一銭五厘の旗」であったに違いない。

(第七回終)

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