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横濱・コスモポリタンの群像

【2018.10】 ハマの赤ひげ診療譚
       ホィーラー先生、イギリス海軍病院と逝く

「イギリス海軍病院」
 生麦事件の翌一八六三(文久三)年、英仏軍は居留民保護を名目に山手に駐留を開始する。現在の「港の見える丘公園」(ブラフ一一五番)に駐留したイギリス軍キャンプ内には早くから海軍病院が設けられていた事が知られている。その後一八七五(明治八)年に駐留軍は撤退するが、ブラフ一六一番に設けられていた横濱山手イギリス病院と統合し、一八七九(明治十二)年、ブラフ一一五番にイギリス海軍病院が竣工される。


和歌山毒物カレー事件を題材とした小説『悲素』の著者、医師でもある作家・帚木蓬生によれば、ヒ素による殺人が頻発するようになるのは十七世紀イタリアだった。トッファーナという女が女性向け化粧水に擬した無水亜砒酸の水溶液を販売したところ、貴族の男達の不審死が急増し、十九世紀に至るまでヒ素水溶液による夫殺しは後を絶たなかった。微量を継続的に投与して夫を徐々に衰弱させることで、医師にも気付かれ難かったためである。十九世紀半ば、不本意な結婚を強要され、俗物の実業家の夫をヒ素で毒殺したマー・ラファルジェ事件は彼女の壮絶な半生が人々の同情を呼び、フローベールの『ボヴァリー夫人』他多くの小説の題材となった。前回「浅瀬のざわめき」でご紹介したカリュー事件で、ヒ素で夫を殺害したとされる妻イーデスの記した墓碑銘から垣間見える彼女の才媛と文学的造詣の深さを考えると、これがマリー・ラファルジェ事件に着想を得たものと推測するに難くない。一方で、主治医として、死の一週間前から夫ウォルターを頻繁に診察していたにも拘わらずホィーラー医師が薬物中毒を疑わなかったのは何故だろう。この謎を解くべく明治維新ら大正に至る半世紀に亘り居留地の名物医師として活躍したホィーラーの足跡を辿ってみよう。


ホィーラーの来日は、一八六九(明治二)年に遡る。弱冠二九歳の才気溢れる若手医師だった。酒豪と熱血漢で知られるアイルランド出身の彼は、海軍軍医として来日し、当初はイギリス公使館付医師となる。ワーグマンやラウダーが高輪・東禅寺のイギリス公使館で攘夷浪士に襲撃された一八六一(文久元)年から八年が経過していたとはいえ、外国人の生命を脅かす社会情勢は続いていた。イギリス人ジャーナリスト、J・R・ブラック著す『ヤング・ジャパン』には、一八七一(明治四)年、新潟で志士に襲われ負傷したお雇いイギリス人教師の治療のために、東京から早馬を飛ばし八四時間で駆け付けた武勇伝が紹介されている。

ホィーラーは、公使館付医師の職に加え、日本初の鉄道建設にイギリス人技術者が招聘されると、工部省の鉄道医をも兼務した。国策の為に短期間の過酷な労働を強いられ三十歳で早世した建築技師長E・モレルを筆頭とする技師たちに、ここでも情熱を傾け温い医療の手を差し延べた。その後、日本海軍軍医の育ての親とも称されるW・アンダーソンと共に海軍省付軍医教官も務めたが、一八七六(明治九)年に全公職を辞した後、終生を過ごすことになるブラフ九七番で開業医となる。現在のアメリカ山公園内にあたる。

当時、ブラフの外国人居留民を取り巻く医療環境は決して良好ではなかった。開港直後、列強諸国が相次ぎ居留地に海軍病院を設けたが、軍人施設のため居留民一般には開放されなかった。こうして設立されたのがブラフ八二番(現在「ブラフクリニック」のある場所)の「山手ゼネラル病院」だった。


経営難に陥ったオランダ海軍病院を有志が買収し、居留民のための総合病院としたのだ。ホィーラーは一八七八(明治十一)年、この病院の医師として一般居留民の治療に携わる。脇道に逸れて横濱の邦人向け病院の成立に目を転じよう。先の山手ゼネラル病院は邦人の診療を排していないにせよ、高額な医療費を払って訪れる日本人は少なかった。一方で、開港後に伝播した先端的英米医学を邦人医療にも施す目的で、横濱商人有志が出資し一八七四(明治七)年、野毛山に建設されたのが「十全病院」だった。運営自体に横濱商人有志が参加する市中共立病院であり、貧民の無料診療など社会福祉事業としても先駆的なものだった。

この十全病院の初代医師であるアメリカ人D・B・シモンズの退職後、一八八〇(明治十三)年、一八八三(明治十六)年の二度に亘りホィーラーも招かれ勤務した。十全病院退職後は再びゼネラル病院に戻り、今度は後進の日本人医師の育成に携わる。かくしてホィーラーは横濱居留民のみならず 邦人医療の草創期にも大きな足跡を残すことになった。だが翻って、医療後進国日本の医療現場に身を置き続けることは、同時に本国イギリスの先端医療技術から取り残されていくことを意味する。

十全病院勤務の前後から、ホィーラーは横濱に骨を埋める覚悟を決したように地域社会への貢献活動に手を広げていく。クライスト・チャーチやヴィクトリア・パブリックスクールの委員を手始めに、競馬好きが嵩じて日本レースクラブ(根岸競馬場)の副会長を十五年続け、馬主ともなった。スポーツ愛好家として、ヨットクラブや横濱クリケット運動競技クラブ会長も務めた。夫人メアリーも一八七八(明治十一)年設立の日本初のテニスクラブ「レディース・ローンテニス・アンド・クロッケー・クラブ」の初代会長として歴史に名を留めている。そして、運命の一八九六(明治二九)年十月を迎える。イーデス夫人の求めに応じウォルター・カリューが支配人を務めるユナイティッド・クラブに往診に出向いたのが十五日。持病の肝炎に伴う胆道狭窄という診断で二、三日の休養を指示。十七・十八日に掛けてウォルターの容態は持ち直すものの十九日には胃痛・腹痛と激しい喉の渇きを訴える。二十日、イギリス海軍病院のトッド医師にも診察を依頼し、肝臓の萎縮を見るが胃痛・腹痛との因果関係が掴めず病状に不審を持つ。困惑した両医師は東京のベルツ博士に往診依頼を行うものの、多忙を極め実現しない。二十一日、病状が急激に悪化。翌二十二日、ウォルターのヒ素常用を知人より耳打ちされたホィーラーは慌ててイギリス海軍病院に入院させるが、夕刻には還らぬ人となった。

ウォルターにとって、その主治医が居留地の名士ホィーラーであった事が果たして幸運だったのか。異国の医療現場に四半世紀身を委ねた医師にして、マレーの植民政府職員を経て横濱に流れてきたウォルターのようなあばずれ者が、妻による毒殺に利用されることになる淋病の排尿障害の鎮痛のためのヒ素を、別の医師から処方されていた事実を見抜けなかったことは、医療知識の欠落の謗りを免れ得ないのではないか。熱血漢医師ホィーラーが職業倫理上、ウォルターの死に対し自責の念に駆られたことは想像に難くない。この平和な横濱居留地で、ヒ素による夫殺しが謀られることなど想像つかなかったにせよ、である。


そしてカリュー事件から二七年が経過した、一九二三(大正十二)年九月一日土曜日の正午前へと時計の針を進めよう。その日、八三歳のホィーラーは朝の診療を終えるとバンドの競売場で友人のトム・アベイと一杯のシェリー酒を傾けていた。突然天地を揺るがす大地震に慌てて競売所を飛び出すと、二人は共に家族の待つブラフへと足を向け、重い足取りで、しかし急ぎながら谷戸坂を上っていく。ブラフ一帯を覆った火災の炎風にまかれ二人は瞬時に敢え無く命を落としてしまう。老いて尚、死の間際まで医師を貫き通したホィーラーが目指していたのは、自宅ならぬ谷戸坂上のイギリス海軍病院だったのかもしれない。そのイギリス海軍病院もこの関東大震災の被災により四四年の歴史に幕を閉じることになる。

ホィーラー先生の名誉のためにひとつだけ付け加えておこう。帚木蓬生によれば、一八四〇年頃、マリー・ラファルジェ事件を契機に微量のヒ素を検出する方法が確立し、ヒ素による殺人の未然の抑止力となった。しかし、患者の症状からヒ素中毒を判断することは現在でも至難の技で、大学病院の中毒専門医でなければ確定診断に至らない、という。ホィーラーに欠けていたのは医学的知識というよりは寧ろ、イーデスに溢れんばかりに備わっていた文学的素養、だったのかもしれない。

(第六回終)

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