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横濱・コスモポリタンの群像

【2018.03】 浅瀬のざわめき
       「小さなヴィクトリア朝」の殺人事件

「小さなヴィクトリア朝」
 一八九六(明治二十九)年時点で、横濱外国人居留地には四千百人の外国人が住み、通訳として大陸より帯同された中国人を除くと約五十%はイギリス人だった。二番目のアメリカ人二十%を遥かに凌ぐ彼らは居留地にヴィクトリア朝を模したコロニー、つまり階級制度の下に形骸化した貴族的風習や価値観を根強く残す閉鎖的な社会を形成していた。


明治二十九年十月十五日、バンド五番(現在の神奈川県民ホール)にある横濱ユナイテッド・クラブの支配人ウォルター・レイモンド・ハロウェル・カリューは著しい倦怠感と腹痛に悩まされていた。出勤前に妻イーデスに頼んでおいたホィーラー医師がクラブに往診に来てくれた。持病の肝炎による胆道狭窄と思われるので、数日間自宅で静養するように、という診断だった。 四十三歳になるウォルターは七年前、十五歳年下のイーデスと巡り合い、別の女性との婚約を破棄して結婚した。イーデスはサマセット州の名家の長女で莫大な信託遺産を持っていた。パーティーでウォルターを見初めた彼女は、当時イギリス女性の結婚が許される二十一歳の誕生日を迎えたばかりだった。その後ウォルターはマレー駐在の植民地政府公務員となったが、肝炎に加え鬱病を発症したのを契機に、妻と横濱に渡り、一男一女を設けた。イギリス人、W・H・スミスによって設立された社交場、ユナイテッド・クラブの支配人の職を得たのだ。ヴィクトリア朝の男尊女卑を象徴する女人禁制の格式あるクラブであった。 ウォルターは自宅で静養を続けていたが、ホィーラーの再三の往診にも拘らず病状は悪化していく。一週間後の十月二十二日、ウォルターが密かにヒ素を常用しているようだ、と知人より耳打ちされたホィーラーは慌ててウォルターをイギリス海軍病院(現在の港の見える丘公園)に入院させるが、夕刻に息を引き取る。検屍の結果はヒ素中毒死と判定された。ヒ素の購入を妻イーデスが行っていた事実がカリュー家住み込みの女性家庭教師ジェイコブによって暴露されたことでウォルターの死に疑義が持たれ、検屍裁判、更には領事裁判へと発展する。家庭教師仲間を介してホィーラーにヒ素常用の事実を知らせたのも彼女だった。


幕末開国時の不平等な日英修好通商条約は、明治政府の努力により一八九四(明治二十七)年、領事裁判権の撤廃と関税自主権を含む改正条約として再締結されていたが、領事裁判権撤廃まで五年の猶予期間が設けられ、この事件はその最中に起きた。奇遇にも、この領事裁判でイーデスの弁護人を務めたのが、前回「外交官たちの岐路」に登場した幕末日本に通訳官として派遣されたラウダーであり、時の駐日公使(大使館未設置のため実質的な大使)はもう一人の通訳官サトウであった。 居留地の若妻が十五歳年上のカイザル髭を蓄えた豪放磊落な夫を薬殺した容疑を負わされたこの裁判は、ゴシップに飢えた居留民の関心の的となり、三ヶ月余りに及ぶ裁判の傍聴席は埋め尽くされ、居留地英字新聞はその詳細な裁判記録を連載した。居留地のみならず日本語新聞で日本人の巷間にも、そしてイギリス本国でも報道されることになる。


裁判は泥沼であった。イーデスを告発したジェイコブには階級意識に加え、二十八歳の若妻に対する三十歳未婚女性の嫉妬がある。乗馬が趣味のイーデスの美貌に惹き寄せられた幾人もの男達がカリュー家に出入りし、ウォルターも自らの女性関係(ジェイコブとの関係さえ含まれた可能性がある)と引き換えにこれを黙認していた。ウォルターによるヒ素の常用も、マレー時代に感染した淋病による排尿障害の痛みを緩和する自家療法として始まったが、ヒ素の強壮効用も信じられていた。イーデス自身マラリアの後遺症にヒ素を処方してもらった前歴がある。 イーデスがウォルターのヒ素常用をホィーラー医師に隠していたのも、裁判の証言で持病が胆道狭窄症と表現されたのも、実態を隠蔽し外形を繕うヴィクトリア朝的価値観の作為だった。加えて、妻の資産に執着した夫と、世間体を憚り素行の悪い夫との離婚に踏み切れぬ妻、という仮面夫婦の虚構さえ透けて見える。 ヒ素を購入していたイーデスへの嫌疑が強まる中、事件の直前にアニー・リュークという黒服に厚いベールで顔を覆った女性がカリュー家を訪ねてきた事実が弁護人より明かされる。不在中に対応したイーデスからこの事実を知らされたウォルターは狼狽え、船会社に到着人名簿の照会までしている。婚約を破棄されウォルターの子供を身籠っていたとさえ噂されるその女性が横濱に突然出没したのだ。そしてウォルターの死後「復讐は終わりました」という謎の手紙を残して忽然と姿を消してしまう。まるでウォルター殺しの真犯人であるかのように。 ここで、検事側からイーデスにとって致命的な事実が明らかにされる。ジェイコブがイーデスの破り捨てた手紙をこっそり継ぎ直して保管していた。その中に大量の恋文が見つかったのだ。手紙の主はイーデスの資産管理の相談に乗っていた香港上海銀行の若き出納係ディキンソン。彼は、家庭内暴力を奮い資産の横取りを目論む夫との離婚を匂わせるイーデスの相談に応えつつ彼女への恋心を訴える、何通もの恋文を法廷で自ら読み上げさせられた。かくして夫殺害の動機を陪審員は確信することになる。


イギリスの法律では重罪の領事裁判では十二人の陪審員の評決を求めているが、この裁判の陪審員は五名であった。狭い横濱居留地で、被害者も被告人も顔見知りという特殊な環境下、被告人と利害関係のない陪審員を選定するのが困難だったことも一因だろう。所定の人員を欠いた陪審員による評決の結果は「有罪」であった。殺人罪の場合、これは死刑を意味する。かくしてイーデスの領事裁判は死刑判決で幕を閉じる。一八九七(明治三十)年二月一日のことだった。 領事裁判の判決は在日公使アーネスト・サトウの裁定により執行される。二日後、横濱・領事法廷にもたらされたサトウの署名入り文書には、一月十日に崩御された英照皇太后(孝明天皇妃)による日本国内での大赦令に準じ、イーデスの死刑判決を終身刑に減刑する、とあった。国内の大赦令が横濱居留地の領事裁判に適用されるのは異例だが、或いは旧知のラウダーとサトウの間で何らかの話し合いが持たれたのかも知れない。 以上詳細は、元毎日新聞記者の徳岡孝夫がカリュー事件の裁判記録を丹念に繙き著した『横浜・山手の出来事』によって現在も知ることができる。徳岡は冤罪の可能性も否定できないこの判決の背後に隠された事実を同著後半で追跡している。本国の刑務所に移送され、ジョージ五世即位による恩赦で十三年後に出所し九十歳まで存命したイーデスの後半生、ジェイコブの虚言癖による前科、そしてアニー・リュークの実在など興味深い事実が綴られている。


 ウォルター・R・H・カリューの墓は山手外国人墓地の南側、貝殻坂を上った左手の生垣の内側に、外国人墓地には珍しい大理石の寝墓として残されている。裁判の最中、イーデス自らが彫らせた墓碑銘には、ヴィクトリア朝の詩人テニソンの辞世の詩の一部が引用されている。”And may there be nomoaning of the Bar,When I put out toSea.” (「とこよの海にいでたつ折よ/ながれより浅瀬にさわぐ/あだ波のなげきはなかれ」片山信 訳) “Bar”には砂州の浅瀬の他に、法廷、障害、そしてウォルターが勤めていたバーの意味がある。「小さなヴィクトリア朝」として存在した横濱外国人居留地のそんな「ざわめき」の中から、イーデスは(そしてウォルターも)解き放たれたい気持ちだったのだろうか。 ジェイコブへの逆訴追などの法廷戦略を駆使した弁護人ラウダーは、陪審員の有罪判決を忸怩たる思いで聞いたに違いない。一通訳官から在日公使まで上り詰めたサトウとは異なり、総領事止まりのノンキャリアの道を諦め、イギリスに帰国後弁護士資格を得て再び横濱へと戻ってきた五十三歳のラウダーにとって、この裁判記録こそが彼の人生最後の光芒であった。六年後、ラウダーは急逝し、後に残されたジュリア夫人と共にカリューと同じ外国人墓地に眠っている。

(第五回終)

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