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横濱・コスモポリタンの群像

【2016.09】二枚の自画像
       チャールズ・ワーグマンの二つの貌

「彼らは生前、極東のこのコスモポリタンな居留地で、
お互いに良き隣人として同じ一つの共同体に属して生活していたのだから」

一八六四(元治元)年、
横濱山手外国人墓地の墓域拡大にあたってのイギリス公使オールコックの訓令より


一九九四年七月、南アフリカ出身の写真家、ケビン・カーターは三三歳で自らその命を絶った。内戦と旱魃で荒廃したスーダンで飢餓寸前の少女を狙うハゲワシをフィルムに焼付けピューリッツァー賞を受賞した後、「報道より少女を助けることが先決ではないか」とする非難に晒された末の自殺だった。凄惨な現実の観察者としての記録者は、同時に現実に直面する当事者としての二律背反に煩悶する。


「ポンチ絵」すなわち日本における漫画の始祖とされるチャールズ・ワーグマンが『イラストレイティッド・ロンドン・ニューズ』(以下「ILN」)の特派員として来日したのは一八六一(文久元)年四月二五日。日英修好通商条約の批准書を携え初代駐日公使に就任したオールコック来日の二年後のことである。新聞に掲載する写真の製版技術が十分でなかった当時、線画と記事で伝えられる、二百余年に亘る鎖国を破った極東のこの神秘の国に生起する事物に、英国を始めとする世界が耳目を集めていた最中である。
 ワーグマンの生涯は遺された夥しい作品群とは裏腹に詳らかではない。一八世紀にスウェーデンから英国に渡ってきた銀細工職人の末裔として一八三二年、ロンドンに生まれ、二十歳前後にはパリで絵画修業に励む。十六歳年下の弟ブレイクは後にロイヤル・アカデミーの会員となる画才の持ち主。陸軍を退役後、ILN特派員としてアロー号事件直後の中国に派遣される。そこでワーグマンが目にしたものは、欧米列強に蹂躙される眠れる獅子・中国の姿だった。
 そして、ワーグマンは幕府の条約締結により開港が決まったばかりの横濱に転任する。そこは勤皇の志士たちが「夷狄」の生命を付け狙う殺戮の修羅場であった。長崎に上陸したワーグマンは英国公使オールコックと共に当時の公使館であった高輪・東禅寺に到着したその晩、水戸攘夷浪士の夜襲を受け、床下に身を隠し九死に一生を得る。ワーグマンはこの襲撃の一部始終を冷徹に観察し、イラストと記事にしてILNに送り、母国にその名を轟かせることになる。
 まさに外国人受難の時局であった。前年一八六〇(万延元)年にはアメリカ総領事ハリスの通訳兼書記官ヒュースケンが薩摩藩士により殺害、翌年には有名な生麦事件が起き、薩英戦争を惹き起す。そしてワーグマンにとって最も衝撃的な事件が一八六四(元治元)年一一月二一日に勃発する。この日、ワーグマンとビジネスパートナーの写真家ベアトが取材旅行で江の島を訪れた際、偶々巡り合ったボールドウィン、バードという二人の英国士官と昼食を共にした。その後別れた士官たちが鎌倉の大仏を見に行った帰り道で二人の浪士に刺殺されてしまう。
 やがて、清水清次、間宮一、という刺客が捕縛され横濱市中引廻し後、戸部牢屋敷前の刑場で打ち首、吉田橋に晒し首となった様子を、ワーグマンは仲間の怨念を晴らす如くイラストと記事にしてILNに送ることになる。


バンド二四番(現在のシルクセンター脇)にオフィスを構えたワーグマンが、ILN特派員の傍ら自ら『ジャパン・パンチ』(以下「JP」)を創刊したのは一八六二( 文久二)年五月であった。この社会風刺雑誌は幾度かの休刊を経ながらも一八八七(明治二〇)年三月の二二〇余号まで続くことになる。ワーグマン十一歳の時にロンドンで創刊された『パンチ』誌の横濱版である。日本を中心とした国際情勢から日本人の習俗、そして横濱外国人居留地に跋扈する名士達をカリカチュアライズした初版二百部の雑誌は、外国人居留民たちの話題を浚うコミュニティ誌として大人気を博した。やがて、その風刺諧謔精神は日本人にも伝播し、仮名垣魯文『絵新聞日本地』他へと引き継がれ「ポンチ絵」と称される漫画の源流になっていく。
 ワーグマンが遺したもうひとつの功績として忘れてならないものは、五姓田義松や高橋由一といった日本洋画揺籃期の人材を育成したことにある。日本の官立美術教育は一八七六(明治九)年、工部大学校に招聘されたイタリア人フォンタネージに始まるが、これに先んじて先進的な洋画を学ぶために横濱居留地の画家に師事する者が現れた。父・芳柳も長崎で洋画を学んだ経験のある、横濱在住の五姓田は一八六六(慶応二)年、若干十二歳でワーグマンの門を敲いた。高橋由一も同じ頃ワーグマンに入門し、東京から横濱まで歩いて通い、油絵の教えを受けたといわれる。
 冒頭に述べた通り、ワーグマンはパリで絵画の修業も積んでおり、ジャーナリスティックな美術特派員を職業としながらも、リアリズムに徹した作品を数多く残している。だが、日本洋画界はやがて官立美術がその本流となっていき、民間洋画教師の草分けとしてワーグマンの果たした役割はいつしか忘れ去られることになった。


ここに二枚のワーグマンの自画像がある。一枚はJP創刊当初、自らを戯画化して掲載した「われらが画家の肖像」。もう一枚は制作年不詳のまま遺された油絵の自画像である。見る者はこれら二枚が同一の作者になるものであることに疑いを差し挟むに違いない。ポンチ絵で描かれた自画像は、ジャーナリストとして権威に立ち向かう社会風刺の気概に満ち溢れた自負さえ感じさせる一方、油絵で写実的に描かれた自画像は、レンブラントを思わせる暗い背景に、画家としてのキャリアに挫折し、極東の小さな港街で職業イラストレーターとして身を持て余している喪失感さえ覚える。一体この「落差」は何処からやって来るのだろうか。


ワーグマンは、バンド二四番にオフィスを構えILN特派員の傍らJPの発刊を始めた翌年、小沢カネという日本人女性と結婚し、一子、小沢チャールズ一郎を設ける。彼は西欧列強に蹂躙され植民地化されるアジア諸国や中国を目の当たりにしながら日本に辿り着き、ILN特派員という立場で観察者として列強に毅然と立ち向う日本を記録しながら、いつしか物質的には貧しくともおおらかな日本人を愛しむ当事者へと変貌したのではないだろうか。「夷狄」排斥の異分子を内包しつつ開国へと踏み出す多様性を持ち、結果的に西欧列強に植民地化されることなく独立を保った日本の柔軟さと強かさ。ワーグマンはそんな日本人にいつしか強く惹かれるようになっていったに違いない。


ワーグマンは愛する妻の姿を数枚の肖像画に遺している。彼女の生年は不明だが、絵の中の新妻は少女の如くあどけない。まさにグローバルの荒波に飛び出したばかりの日本そのものの象徴こそが、彼女の肖像画であった、といっても過言ではないだろう。


ワーグマンの自省的な自画像は、その当事者としての苦悩の表象だったかもしれない。彼の師事を乞うた一人に明治浮世絵界に名を残す小林清親がいる。理由は不明だがある日ワーグマンの不興を買って足蹴にされ破門されたという逸話が残っている。諧謔の軽妙を漂わせた彼とは思えぬ激情家の一面を伺わせる。幕末に門弟となった五姓田にせよ高橋にせよ、やがて官立美術に浸るうちに、素人画家、ワーグマンへの恩を忘れていった。ワーグマンは、一八八七(明治二〇)年、五五歳でJPを廃刊すると、一度故郷ロンドンに戻り、弟ブレイクと共に展覧会を開催するも、大した評判を得ることもなく失意のまま帰濱する。
 これが青雲の志に画家を夢見てパリに向かったワーグマンの最後の試金石だったのだろう。帰濱後、ワーグマンは精神を病み、三年後の一八九〇(明治二三)年、五八歳で世を去る。


ワーグマンの「二つの貌」はあるいは双極性障がい( 躁鬱病)だったのかもしれない。記録者と当事者の葛藤の末に自死を選んだ報道写真家、ケビン・カーターもその病に苦しめられていた、と言われている。

(第一回終)

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